コラム「イタリア美術史」早川伊太郎

メルマガ「イタリア文化講座」連載記事のバックナンバーです。

コラム「イタリア美術史」早川伊太郎

メルマガ「イタリア文化講座」に連載中の「イタリア美術史」バックナンバーです。
年代を追うものではなくトピックごとに解説する美術史コラム。
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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第1回 ボッティチェリ《アペレスの誹謗》 2016/3/20

今回からイタリア文化講座の美術史を担当させて頂く早川と申します。専門は15~16世紀のイタリア・ルネサンス絵画ですが、近現代の美術も扱っていきたいと思います。この講座では年代順に項目を追っていくのではなく、毎回何らかのトピックを設けて、それを解説していきたいと思います。今回は東京都美術館で開催中の『ボッティチェリ展』に出品されている、《アペレスの誹謗》を取り上げます。

この作品は、古代ギリシアの画家アペレスが描いた作品をボッティチェリが復元したものといわれていますが、アペレスとは一体何者なのでしょうか。アペレスは前332-329年に活躍した画家です。前4世紀のギリシアは絵画が最も栄えた時代と言われ、アポロドロス、ゼクシウス、パラシオス、ティマンテスといった画家たちに続いて、「己に先立つすべての画家、己の後に来るべきすべての画家を凌いだ」アペレスが登場することで絵画は絶頂に達します。彼のエピソードは、古代ローマの博物学者プリニウスが著した『博物誌』を通して詳しく知ることができます。そのうちのいくつかを列挙してみましょう。

①アペレスはアレクサンドロス大王のお気に入りの画家だった。大王はしばしば彼の仕事場を訪れ、絵についてお喋りをしたが、実は絵についてはほとんど無知だった。アペレスは、絵具を作っている少年たちがあなたを笑っていますよと言って、話題を変えるよう勧めた。大王は短気な性格だったが、アペレスの権威はそんな大王にさえ威力をもっていたのである。また、大王にはパンカスペという名の愛人がおり、彼女の裸体像をアペレスに描くよう命じた。しかし、アペレスは制作中に彼女に恋をしてしまうのだが、大王も度量が大きく、彼女をアペレスに贈った。
②当時の文法学者が残した記録によると、彼は肖像を生き写しに描いたので、人の要望によってその人の将来を予言する「人相学者」と呼ばれる人の一人が、彼の肖像画の人物の年齢、亡くなる年などを断言した。
③彼はある絵の競技会で馬の絵を描いたが、ライバルが不正を働いて自分を負かそうとしていることを知ったので、審判を人間から馬に替えるよう要求した。数頭の馬を連れてきて、出品された作品を順々に見せると、馬たちはアペレスの作品を見て鳴き声を上げた。

他にも具体的な技法についても記述があります。それによると、彼は絵を仕上げたとき、絵全体に薄い黒い顔料をかけたといいます。これが反射することで絵画の輝きを引き立たせ、かつ絶妙な具合に絵具の色彩を調整し、埃や汚れから作品を守る役割を果たしたらしいのです。

様々なエピソードに事欠かないアペレスですが、彼の名声を妬む者も出てきます。アペレスは以前からエジプト王プトレマイオスと不仲でしたが、王に対して陰謀を企てているとライバルから非難を受けたのです。そこで彼は弁明を行い、《ラ・カルンニア(誹謗)》と題する絵を描きます。残念ながら、この作品を含めてアペレスの絵は一つも現存しておらず、ルネサンス期にもすでに作品は失われていたので、人々は古代の書物から過去の傑作を想像するしかなかったのです。《ラ・カルンニア》に関するエピソードは前1世紀の風刺詩人ルキアノスの書物に記載されており、15世紀前半にはラテン語訳が流布していました。ルネサンスの万能人として名高いアルベルティも、画家が学ぶべき主題の一例として『絵画論』(1435年)の中でこの話を取り上げました。ボッティチェリはこうした翻訳からインスピレーションを受けたと思われます。なお16世紀に『美術家列伝』を著したヴァザーリによれば、ボッティチェリはこの作品をアントニオ・セーニという親友のために制作したそうです。セーニは教養人として知られていたので、彼が画家に主題や細部について指示を与えた可能性があります。

次に作品の解釈に移りましょう。古代風の建物の中で、青と白の衣をつけた女性「誹謗」が松明を持つ黒衣の男「憎悪」に左手を引かれ、合掌する裸体の男性「無実」の髪を右手でつかんで審問官の前に引きずり出そうとしています。「誹謗」の背後では二人の侍女「欺瞞」と「嫉妬」が彼女の髪や装身具をとりつくろっています。右側の壇上では長い耳をもった審問官「不正」が玉座に座り、二人の女「無知」と「猜疑」が何事かを吹き込んでいます。画面左側では裸体の女性「真実」が天を指さし、傍では黒衣の老婆「悔悛」が「真実」を見つめています。背景の建築物の装飾彫刻には、ダヴィデや聖ゲオルギウス、あるいはアポロとダフネなど、古代神話や聖書、旧約聖書外典などの主題が描かれています。アペレスの時代には当然ながら、まだキリスト教は成立していませんから、ボッティチェリが単なる古代絵画の復元にとどまらず、独自の解釈を加えていたことがわかります。

『ボッティチェリ展』は東京都美術館で4月3日(日)まで開催されていますので、機会があれば足を運んでみられることをお勧めします。展覧会名こそ「ボッティチェリ」とありますが、彼の師のフィリッポ・リッピ、フィリッポの息子フィリッピーノ・リッピ(ボッティチェリの弟子)の作品も数多く展示されており、非常に充実した内容でした。

参考文献
1. 『プリニウスの博物誌』第3巻 中野定雄編, 雄山閣出版
2. 『世界美術大全集 西洋編11 イタリア・ルネサンス1』 佐々木英也・森田義之編, 小学館
3. 『カンヴァス世界の大画家-4』 井上靖・高階秀爾編, 中央公論社
   

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第2回 「バロック」とは 2016/3/21

現在、上野の国立西洋美術館で『カラヴァッジョ展』が開催中です。彼が生きた時代を「バロック」と称しますが、皆さんはこの意味について考えたことがあるでしょうか。今回はその語源と時代背景を考えてみたいと思います。

バロックの語源は諸説ありますが、ポルトガル語の「不整形な真珠」を意味するbarroco に由来するというのが有力です。その他にも13世紀に編まれた覚え歌が源泉で、その後、中世後期の理屈っぽい文章を非難するのに用いられたという説もあります。そして18世紀から19世紀の批評では、ルネサンスの古典主義が解体堕落したものであるという評価が大半を占めています。現代の我々からすると信じられませんが、ベルニーニ、ボッロミーニ、カラヴァッジョ、ピエトロ・ダ・コルトーナといったバロックを代表する芸術家たちが、規範から逸脱した者と捉えらえていたのです。

19世紀末になるとこうした状況に異を唱える人々が現れます。とくに美術史家ハインリッヒ・ヴェルフリンは、『ルネサンスとバロック』のなかでバロックをルネサンスとは異なる固有の価値があることを提唱しました。ヴェルフリンについては別の機会に詳しく取り上げたいと思いますが、彼は様式史というものを打ち立てたことで知られています。彼は主著『美術史の基礎概念』においてルネサンス絵画とバロック絵画には、①線的/絵画的、②平面的/深奥的、③閉じられた形式/開かれた形式、④多様性/統一性、⑤明瞭性/不明瞭性、という5つの対立概念があることを提唱します。今回は具体的な説明を省きますが、ミケランジェロやラファエロの作品とルーベンスやレンブラントの作品を比較するとこの理論がよく当てはまります。

なお、バロックのように元来蔑称であったり、否定的な評価を受けていたものが後に肯定的な評価を受けるというのは他にもみられる現象です。モネらの作品を皮肉った批評家の言葉から印象派という語が誕生したのは有名な話です。芸術観というものは常に一定ではなく、肯定と否定の間を揺れ動いているというのは興味深いことです。

バロックを理解するためのキーワードはいくつかありますが、とくに対抗宗教改革は押さえておくべきポイントです。メディチ家出身の教皇レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂改築の費用調達のために免罪符を売り出します。これに対してルターが1517年「九十五個条の提題」を発表することで宗教改革が起り、西方教会はカトリックとプロテスタントに分裂します。カトリックであるローマ教皇庁はプロテスタントに対抗すべくトレント公会議を開催(1545~63)し、教皇の至上権の確認や内部刷新に努めます。こうしたカトリック側の改革を対抗宗教改革といいます。美術にも思想統制の波が押し寄せ、マニエリスム期(ルネサンスとバロックの間に位置する芸術様式。1520年代以降に興った。極度に技巧的・作為的な傾向をもち,時に不自然なまでの誇張や非現実性を伴う美術様式。)の表現を修正し、異教的表現、裸体表現、華美な装飾を取り締まりました。ミケランジェロの《最後の審判》もパオロ4世の命により、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが一部を覆う布を描き込んだのです。なお、クレメンス8世はこれを破壊しようとしましたが、サン・ルカ画家組合の請願によって破壊は免れたため、今日も我々はその傑作を鑑賞することができるのです。

カトリック教会のこうした運動によって、対抗宗教改革は一応の成功を収め、教皇庁の権威も回復します。すると教皇庁はそれまでの政策を転換して、民衆教化のために美術を利用し始めます。さらにシクストゥス5世に始まるローマ改造の影響で、豪華絢爛な聖堂、礼拝堂、祭壇などがつぎつぎと建造されていきます。ローマを訪れた大半の人はサン・ピエトロ大聖堂の目の前の広場へ足を運んだことがあるかと思いますが、広場とこれを囲む柱廊はベルニーニが設計したもので、改造事業の一環として制作されました。

こうしてバロックにおいて盛隆を誇ったイタリアですが、17世紀半ばになるとフランス、スペイン、オーストリアなどから侵略を受け、国土と財政が疲弊していきます。オランダはスペインから独立し、アムステルダムは金融都市として発展してきます。イギリスは東インド会社にみられるように積極的に海外進出を行います。そしてフランスではアンリ4世に始まる絶対王政が確立されていきます。このように周辺の国々が国力を増していくのとは対照的に、イタリアは衰退の道を辿ると同時に、美術の創造も新興国にその座を譲ることになるのです。

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第3回 「カラッチ一族の功績」 2016/4/5

前回はバロックの時代背景についてお話ししましたが、今回はバロックの礎を築いたカラッチ一族を取り上げます。カラヴァッジョに比べると我が国での知名度は劣るかもしれませんが、彼らの存在がなければ、のちの盛期バロック様式が確立されなかったかもしれないのです。

カラッチ一族は、兄アゴスティーノ、弟アンニバレ、従兄ルドヴィーコの3人からなり、1585年ごろボローニャにアカデミア・デッリ・インカンミナーティ(イタリア語で「歩き出す人のアカデミー」の意味)というアカデミーを創立します。ここでは、マニエリスム様式の特徴である過度な技巧や極端な人体ポロポーションを見直し、古代彫刻や人物の写生を重視しながら、理想の美を追求する活動が行われました。この理想美という言葉が示すように、完全にありのままの現実を映し出そうとしたわけではないのです。例えば、アンニバレ・カラッチの《エジプトへの逃避》(1604年頃、ローマ、ドーリア・パンフィーリ美術館)は、想像上の古代遺跡と計算された木々の配置の中に聖家族を描き出した理想的風景画といえます。同時代に活躍したカラヴァッジョがあまりに迫真的なリアリズム絵画を描いたために、注文主である教会からしばしば受け取りを拒否されたというエピソードとは対照的です。

また、アゴスティーノはフィレンツェ、パルマ、マントヴァ、ヴェネツィアなどを旅して、盛期ルネサンスの諸大家の様式を研究する理論家としての側面も持ち合わせていました。16世紀イタリアでは、フィレンツェの素描(ディゼーニョ)、ヴェネツィアの色彩(コローレ)が絵画の対立要素として存在していましたが、彼はその融合を試みたのです。こうした傾向が折衷主義として非難を受けることもありましたが、対抗宗教改革という時代の求めに応じたことを考慮すると、単純に否定するのは難しいと思います。美術作品というものは、時代を超えた普遍的価値をもつものと、特定の時代や宗教、政治などに応じて生み出されるものに分かれますが、カラッチ一族の場合は、後者に当てはまるでしょう。

カラッチ一族の活動により、ボローニャにはイタリア各地から絵画を学ぶ者たちが集まり、ボローニャ派と呼ばれる一派を築くまでに成長します。そしてアンニバレは、1597年にファルネーゼ宮殿の装飾のために弟子たちとローマへ赴きます。とりわけ天上中央大画面の《バッカスとアリアドネの凱旋》は有名で、あたかも額縁にはめ込まれているような効果を狙ったイリュージョニスティックな表現、ミケランジェロの彫刻と絵画から学んだ人体表現、ラファエロ的な色彩などをまとめ上げた傑作により、アンニバレはその名を不動のものにします。さらに彼の同地での活動によりボローニャ派の表現様式がローマにもたらされ、その後のバロック美術の中心地がローマへ移るきっかけとなりました。

こうしてカラッチ一族が築いたバロック様式は、グイド・レーニ、ドメニキーノ、グェルチーノらによって受け継がれ、ピエトロ・ダ・コルトーナによる盛期バロック美術の確立へと至るのです。

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第4回 「カラッチの後継者たち」 2016/5/9

前回はイタリア・バロックの礎を築いたカラッチ一族を取り上げましたが、今回は彼らの様式を受け継ぎ、盛期バロックへと繋がる役目を果たした芸術家たちを取り上げます。

まずはグイド・レーニ(Guido Reni, 1575~1642)です。カラッチ一族が創設したボローニャのアカデミーで学んだ後、彼はローマへ赴きます。初期の作品、例えば《聖ペテロの磔刑》(1604~05年, ヴァティカーノ美術館)では、カラヴァッジョの影響による迫真的リアリズムと明暗表現を特徴としていましたが、カラッチの古典主義を学ぶことで色彩を抑え、素描や均整のとれた構図を重視するようになります。彼の名を一躍有名にしたのは、ローマのパラッツォ・ロスピリオージのカジーノ・デッラウローラ(アウローラの間)に描いた装飾画(1613~14年, ローマ, パラッツォ・ロスピリオージ)です。因みにアウローラとはギリシア神話の曙の女神で、17世紀バロック絵画にしばしばみられる主題です。彼女は2頭または4頭の馬の凱旋車を操るか、有翼の馬ペガサスにまたがり、鼻をまき散らしながら進む姿で描かれることが多いです。レーニの作品は一見すると額縁にはめ込まれたかのように見えますが、実はこの額縁は、額縁の中の場面と同様に壁に描かれたものなのです。

二人目はドメニキーノ(Domenichino, 1581~1641)です。彼はアンニバレ・カラッチが従事したパラッツォ・ファルネーゼの装飾事業で助手を務め、その後ローマに定住します。前述のグイド・レーニがボローニャはローマに戻ったため、彼の仕事を引き受けるようになります。ドメニキーノは友人であり、神父、理論家でもあったジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキ(Giovanni Battista Agucchi, 1570~1632)から影響を受け、卓抜したデッサン力を駆使した作品を遺します。《聖ヒエロニムスの聖体拝領》(1614年, ヴァティカーノ美術館)では建築的な構図、卓越したデッサン力を特徴とする彼の代表作です。聖体拝領とは、キリストが最後の晩餐でパンとブドウ酒を「パンは私の体であり、杯は私の血による契約である」と弟子たちに述べた言葉を記念してパンとブドウ酒を会衆に分ける儀式で、秘跡とも呼ばれ、対抗宗教改革時に盛んに描かれた主題です。また、ディアネイラという娘を巡り牡牛に姿を変えた河神アケロオスと戦うヘラクレスを描いた《ヘラクレスとアケロオスのいる風景》(1621~22年頃, パリ, ルーヴル美術館)では、登場人物は画面右下に小さく描かれており、ほとんど風景画といってもよい内容です。自然を写生しながらも理想的風景に修正して描き直すカラッチ一族の手法を受け継いだ技法がこの作品にみられます。

最後の作家はグエルチーノ(Guercino, 1591~1666)です。彼もボローニャのアカデミーで学び、1616年にはヴェネツィアに赴き色彩理論を学びます。レーニやドメニキーノに遅れること1621年ローマへ赴きます。ローマでは教皇グレゴリウス15世の甥のためにカジーノ・ルドヴィーゴの《アウローラ》(1621~23年、ローマ, カジーノ・ルドヴィーゴ)の制作に従事します。この作品は明るい色彩、人物と動物の動きに富む表現を特徴とし、前述の通りアウローラは花をまきながら前進する姿で描かれています。グエルチーノがグイド・レーニやカラッチを意識して制作に当たったことは明らかですが、この作品には彼らを乗り越えようとした成果もみられます。カラッチらは天上に本物そっくりの額縁を描き、その中に作品を描いています。つまり、彼らが描くうえで念頭に置いていたのはあくまでも絵画でした。それに対してグエルチーノは、額縁の代わりに建築物を描き込むことにより、あたかもその建築空間の中で場面が展開するような印象を与えることに成功したのです。絵画を越えて鑑賞者を空間に引き込もうとする意思がこの技法から伝わってきます。グエルチーノによって築かれたバロック天井画のイリュージョニズムは、ピエトロ・ダ・コルトーナの登場により頂点を極めることになります。

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第5回 「盛期バロックの画家ピエトロ・ダ・コルトーナ」2016/5/23

前回までカラッチ一族、その後継者たちの活動を通してバロック絵画の成り立ちから発展を概観してきました。今回は盛期バロックを代表する画家ピエトロ・ダ・コルトーナ(Pietro da Cortona, 1596~1669)について見てみましょう。

彼は1596年にフィレンツェ近郊コルトーナで生まれます。ちなみに、ピエトロ・ダ・コルトーナとはイタリア語で「コルトーナ出身のピエトロ」という意味です(前置詞daの起源・由来の用法です)。有名なレオナルド・ダ・ヴィンチも「ヴィンチ村出身のレオナルド」という意味です。芸術家の名前には出身地を冠したものが多々ありますので、注意して観察してみてください。その後ピエトロは、1613年にローマへ移ります。1600年代初頭のローマでは、芸術の都市として賑わいをみせており、ピエトロはラファエロをはじめとする盛期ルネサンスの巨匠の作品や、古代ローマの彫刻からインスピレーションを受けます。さらに、アンニバレ・カラッチなどほぼ同時代の芸術家からも影響を受けます。そして教皇ウルバヌス8世の甥である枢機卿フランチェスコ・バルベリーニの保護を受けますが、これが後のバルベリーニ宮殿装飾事業へとつながります。

初期の代表作に、銀行家マルチェッロ・サンケッティの依頼で制作した《サビニ女たちの略奪》(1630年, ローマ, カピトリーノ美術館)が挙げられます。

古代ローマ建国時にはローマに女性がほとんどいなかったため、建国者ロムルスは一計を案じて近隣の住人であるサビニ人たちを呼び寄せ宴を開きます。宴もたけなわとなったころを見計らい、ローマの兵士たちが会場になだれ込み、未婚の女性たちをさらってしまいます。この伝承に基づく作品はしばしばバロック絵画の主題として好まれました。ピエトロの作品は、当時ローマで流行していた古典主義絵画とは一線を画しています。一般的に古典主義の場合、奥行きのない画面に輪郭線を強調した堅固な人物を配置して、人物の動作を抑えめに表現するといった、安定した構図を特徴とします。しかしピエトロは、画面のやや左に奥へと連なる空間を設けています。また、左側の円柱、中央のオベリスク、右側の両手を挙げる女性が縦の軸を強調しています。このように、横、縦、奥という三次元的な空間を意識した構図を作り上げており、ヴェネツィア派の画家ティントレットを想起させます。さらに、人物は一人一人が独立した像ではなく、兵士と娘たちがまとまりをもった量塊(マッス)のように見えます。これは美術史家ヴェルフリンが提唱したバロック絵画の特徴に見事に当てはまります。

ピエトロの名声を決定づけた作品として、1633年から39年までに行われたパラッツォ・バルベリーニの天井画装飾で制作された《神の知》(1633-39年, ローマ, パラッツォ・バルベリーニ)が挙げられます。

天上を仰ぎ見ると、天空が広がるように描かれたこの作品は、周辺人物を短縮法で描き、絵画部分と建築部分が一体化するように描かれています。これにより、鑑賞者自身がいる空間と絵画空間があたかも一体化したような感覚に陥る、いわゆるだまし絵的な効果を可能したのです。画面を下から見てみると、鎌を持つ男性がいます。彼はギリシア神話クロヌスで「時」を表わしています。その上の右手を挙げている女性は運命の女神で「空間」を表わしているといわれます。2人の頭上では、「信仰」、「希望」、「慈悲」を表わす3人の女性像が月桂樹の冠を支えています。古来より月桂樹は病気を予防するものと信じられており、ここでは不滅の栄光を象徴しているのです。冠の中にはバルベリーニ家の紋章である3匹の蜂が飛んでいます。3人の女性の上では、ローマの擬人像が三重冠と呼ばれる教皇冠を掲げ、栄光の擬人像が鍵を抱えています。鍵はキリストが使徒ペテロに天国の鍵を授与したという伝承に基づいており、 聖ペテロのアトリビュートです。ペテロは初代教皇であることから、ここではウルバヌス8世がペテロの正統な後継者であることを示すために描かれているのでしょう。

 こうしてピエトロによって築かれた盛期ルネサンスの大装飾画は、17世紀後半になるとアンドレア・ポッツォ(Andrea Pozzo, 1642~1709)らの画家に受け継がれていくのです。なお、今回は盛期バロック絵画の代表者としてピエトロ・ダ・コルトーナを紹介しましたが、その他にもジョヴァンニ・ランフランコ(Giovanni Lanfranco, 1582~1647)、ジョヴァン・バッティスタ・ガウッリ(Giovan Battista Gaulli=バチッチャ Baciccia, 1639~1709)らがいますので、興味のある方は調べてみて、この時代の絢爛豪華な絵画空間の魅力を感じ取ってほしいと思います。

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第6回 「ヴィンケルマンとローマ(1)」 2016/6/20

この記事を書いていて、6月21日(火)より古代ギリシア展が開催されることに気が付きました。

1755年、彼は何を思いながらローマへ旅立ったのか。憧れのギリシア彫刻、それとも当時発掘に沸き立つ古代遺跡のことを想像していたのか。

話が前後しましたが、今回は美術史という学問の歴史に関する一側面を紹介します。これを通して美術史というものの奥深さを知って頂ければと考えています。今回取り上げるのは、近代美術史学の父と称せられる人物、ヨーハン・ヨーアヒム・ヴィンケルマン (Johann Joachim Winckelmann, 1717–68)です。ドイツ人であり、どちらかといえばフランスの新古典主義において語られることが多い彼ですが、イタリアとも密接な関わりがあるため、以前からぜひ取り上げたいと思っていました。

1717年ヴィンケルマンは、プロイセンのシュテンダールにて貧しい家庭に生まれます。しかし苦学の末、ラテン語を習得、さらにはギリシア語までも身につけ、西洋古典文学に精通するまでになります。1738年ハレ大学に入学しますが、経済的な理由から神学を専攻、しかし大学生活になじむことができず2年ほどで退学、貴族の家庭教師を経て、1741年イエナ大学で自然科学を学ぶために学業を再開します。ハレ大学在籍時に古代貨幣の授業だけは熱心に出席したという記録があるため、早い時期から古代への関心が芽生え始めていたのでしょう。イエナ大学入学後には、やはり家庭教師を務めた貴族の家で古代関連の書物に出会い、古代への興味がさらに強まります。

1748年、彼はネートニッツで当時ヨーロッパ屈指の大蔵書家として知られるハインリヒ・フォン・ビューナウ伯爵(Heinrich Graf von Buenau, 1697–1762) の司書となります。この地でヴィンケルマンは古典や歴史学の知識を深めながら、ドレスデンにも足を運びます。ドレスデンは当時のドイツでは芸術の中心地であり、ザクセン選帝侯のコレクションを展示する絵画館やギリシア彫刻を展示する古代彫刻館がありました。また、マンハイムやポツダムにも古代彫刻館があり、ヴィンケルマンは次第にこれらの古代彫刻に心を奪われていき、最終的にはローマ留学を熱望するに至ります。そして1755年、初著となる『絵画および彫刻におけるギリシア美術の模倣に関する考察』(Gedanken ueber die Nachahmung der griechischen Wercke in der Malerey und Bildhauer-Kunst, 1755, 以下『ギリシア美術模倣論』)を著します。これは出版後まもなく大反響を巻き起こし、この成功によって彼はローマ行きの給付金を獲得します。なお、この給付金を得るためにプロテスタントからカトリックへと改宗します。日本人の私たちからするとあまり実感が沸きませんが、この時の彼の葛藤はかなりのものであったと推測されます。しかし、自らの信仰心を押し切ってまで足を踏み入れさせるほど、芸術には不思議な魔力があるともいえるでしょう。

この年、待望のローマへ移り住み、古代彫刻のコレクターとして名高かったアルバーニ枢機卿 (Kardinal Alessandoro Albani, 1692–1779)の蒐集を手伝い、さらには教皇庁書記官、ローマ地方古美術保存長官に任命されるなど精力的に活動します。特に古美術保存長官は、かの有名なラファエロ以来空席であったことから、ヴィンケルマンの当時の評価の大きさを窺い知ることができます。こうした活動の傍ら、1764年『古代美術史』(Die Geschichte der Kunst des Alterthums, 1764)を発表し、自身の美術史観を確固たるものとします。詳しい解説は次回に行いますが、彼は後のヴェルフリンといった美術史家らが発展させた、様式史というものの礎を築きあげたのです。

ここまで駆け足ながら、ヴィンケルマンの主要な活動を概観してきました。次回は彼の批評がなぜ反響を興し、さらには近代美術史学の礎を築いたといえるのかを考察したいと思います。

参考文献
1. ヴィンケルマン, 澤柳大五郎(訳)『ギリシア芸術模倣論』, 座右宝刊行会, 1976年
2. ヴィンケルマン, 中川典夫(訳)『古代美術史』, 中央公論美術出版, 2001年
 

(ドイツ語のuウムラウトはueと表記しました)

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第7回 「ヴィンケルマンとローマ(2)」 2016/7/17

憧れのローマへと赴いたヴィンケルマンですが、彼の著作がもたらした影響とはどのようなものだったのでしょうか。

大別すると、①ギリシア美術の卓越性を評価して、同時代の美術(バロック・ロココ美術)を否定した、②16世紀イタリアの画家・美術史家ヴァザーリの『芸術家列伝』において見られるような「画家の歴史」ではなく、芸術を「様式」の観点から捉えようとしたことが挙げられます。①については、それまでギリシア美術はどちらかといえば骨董品のような扱いで、その芸術的価値が正当に評価されているとは言い難い状況でした。しかしヴィンケルマンは、そこに固有の価値を見出そうとしたのです。

『絵画および彫刻におけるギリシア美術の模倣に関する考察』(Gedanken ueber die Nachahmung der griechischen Wercke in der Malerey und Bildhauer-Kunst, 1755)は、「良き趣味はギリシアの青空のもとに形を成し始めた」という文から始まり、ギリシア美術の特徴として「美しい自然」、「輪郭」、「衣文」、「高貴なる単純さと静かなる偉大さ」のキーワードを掲げます。特に「高貴なる単純さと静謐なる偉大さ」はヴィンケルマンを語る際に必ず現れる言葉であり、彼はギリシア美術の優位性を述べながら以下のように結論付けます。


結局、ギリシア美術の傑作に通じる優れた特徴は、姿勢と表情とにおける高貴なる単純さと静謐なる偉大さである。表面はいかに荒れようと常に静けさを保つ深海の如く、ギリシア彫刻における表情はいかなる激情に際してもある大いなる端正な精魂を示している。


つまり「高貴なる単純さと静かなる偉大さ」とは「大いなる端正な精魂」であり、このことを《ラオコーン像》(前1世紀後半, ヴァチカン美術館)に適用します。

長くなるため引用は省きますが、大ざっぱに言ってしまえば、この像の素晴らしさは、3人の断末魔の表情や体勢にあるのではなく、苦痛と精魂の壮大さが像全体に分配された均整のとれた表現にあるというのです。

なお、現在では《ラオコーン像》は古代ローマ時代に制作された古代ギリシアのコピーであると考えられています。ヴィンケルマンは他にも《ヴェルベデーレのアポロン》(前330年頃の青銅原作によるローマ時代のコピー, ローマ, ヴァチカン美術館)をギリシア美術の傑作であると評価しています。彼は古代ローマ美術を「模倣者の様式」として低く見積もっているため、彼の批評には間違いがあったということになります。しかし、今とは比べ物にならないほどの資料の未整理、遺跡の未発掘などを考慮すれば、それも仕方のないことであり、これを理由にしてヴィンケルマンを批判することは早計であると考えます。

そして彼は、ギリシア美術への賞賛とは対照的に、同時代のバロック・ロココ美術を攻撃します。

まさにこの正反対をなすもの、これと対照的な対極をなすものは、今日の美術家、特に新進作家の平俗極まる趣味である。彼らの称賛を博するのはただ軽薄な激情の伴う異常な姿勢や動作の主となっているものである。

現在の美術史観から見ればかなり過激な主張ではありますが、これが当時の人たちに広く受け入れ入れられたことも事実であり、この革新的な思想が、18世紀中頃から台頭し始める新古典主義の原動力ともなったのです。

今回はヴィンケルマンの提唱するギリシア美術の卓越性について論じてみました。次回は、②の様式について考察を行ってみたいと思います。

(ドイツ語のuウムラウトはueと表記しました)

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第8回 「ヴィンケルマンとローマ(3)」 2016/8/31

前回は、ヴィンケルマンがギリシア美術の優位性を提唱したことを述べました。今回は彼が様式史に先鞭をつけたということを述べたいと思います。16世紀イタリアを代表する美術史家にジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511-1574)がいます。画家としても名高い彼は、ルネサンス期の代表的な画家・建築家の生涯を扱った『美術家列伝』(Le vite de' piu eccelenti pittori, scultori e architettori)という書物を著わします。これは現在でも美術史研究の重要資料として扱われ、日本語訳も出ています。

「ルネサンス画人伝」(白水社)
「ジョルジョ・ヴァザーリ 美術家列伝」(中央公論美術出版)
 
この本の中では作品解説は比較的簡略で、むしろ作家のエピソードや生き方、すなわち作家の歴史に重点が置かれています。しかしその後、美術史とは作品の歴史であるという考えが現れると、作品を丹念に観察して、対象の描かれ方や色彩の扱い方、作家や時代に固有の特徴などを分析・分類するようになります。これが広義の様式史であり、その様式史の礎を築いたのがヴィンケルマンです。

 彼は1764年、『古代美術史』(Die Geschichte der Kunst des Alterthums)を刊行し、この中で古代ギリシア美術を、①古い様式、②大いなる様式、③美しい様式、④模倣の様式の4つに分類します。

「古い様式」では、この様式の浮彫作品が残っていないため、主に貨幣に表された身体表現を観察することで、より大きな心の動き、激しい身のこなしを推測できると述べています。この様式の特徴を要約して、「その造形表現は、猛々しい勢いを有すが堅く、力強いが優雅さに欠け、その極端な表出が美を弱めていた」と記しています。

その後、フェイディアス、ポリュクレイトス、スコパスといった彫刻家が登場し、美術をより自由に、高貴な次元へと昇華させますが、これを「大いなる様式」と定義しています。この様式の特徴は、「不自然に突き出たり、急激に切り落とされた細部をもつ硬直した人物像から、流れるような輪郭をもつ形へ移行すること、荒々しい姿勢や仕草を、より淑やかに、より知性的にすること、図式的であるより、美しく、高貴に、偉大であること」であり、具体的な作例として《アルバーニのパラス》(ナポリ国立美術館、ヴィッラ・アルバーニ旧蔵、大理石、前5世紀末の原作からの模刻)をあげています。なお、制作年代を見てお分かりかと思いますが、ヴィンケルマンが紹介している作品は、現在では古代ローマ時代の複製であると考えられています。彼は、古代ギリシアではない時代の彫刻を評価したことになりますが、今とは比較にならないほど作品、資料、情報が整理されていないため、致し方ないことでもあり、こうした苦労は常に先駆者に付きまとうのです。

続いて、プラクシテレス、リュシッポス、アペレスらが登場し、「美しい様式」が成立します。やや抽象的な話になってしまいますが、ヴィンケルマンは「グラティエ(優美)」という言葉を用いてこの様式の特徴を説明しています。彼が考えるグラティエを端的に説明すると以下のようになります。「大いなる様式」では、芸術家は調和、気品、真の美、つまり唯一の美の理念(イデア)を追い求めていたがゆえに、その理念から生まれる像は常に似たようなものとなってしまいます。「美しい様式」の作者たちは、この理念を受け継ぎつつも、より自然な作品を作り上げようとしました。これによって、作品は「大いなる様式」よりも多様な表現が可能になります。ヴィンケルマンが考えるグラティエとはこのようなことを指すのです。

最後に来るのは「模倣の様式」です。「美しい様式」において、人間像のプロポーションや身体各部の形は研究し尽くされ、これ以上さらなる高みに達することができなくなったと考えられました。進歩できなければ衰退の道しかなく、創造も行き詰まるため、もはや模倣の道しか残されておらず、そこから生まれる作品はそれ以前の時代よりも劣るものと考えたのです。その特徴として、ヴィンケルマンは「細事へのこだわり」をあげます。模倣者は自らの自信のなさから、修練の足りない部分を仕事の入念さで補おうとしますが、これによって、それ以前の美術家たちの力強い造形が、気の抜けた内容のないものへと変わってしまったというのです。その他にも、「頭像と全身像」、「低い美の理念」などいくつかの項目をあげながら「模倣の様式」の考察が続きますが、つまるところ、「古い様式」から徐々に発展をとげたギリシア美術は「美しい様式」で頂点を極め、その後「模倣の様式」によって衰退していき、終焉を迎えるというのが、彼の考えであったわけです。

今となっては修正すべき点が多いヴィンケルマンの思想ではありますが、様式史はその後も影響力を持ち続け、ヴェルフリンなどの美術史家に受け継がれていきます。また、その情熱的な文体は文学の領域にも影響を及ぼし、文豪ゲーテはイタリア旅行の際、ヴィンケルマンの書物を手にしてローマの遺跡を巡ったといいます。美術史のみならず文学でも偉大な足跡を残したヴィンケルマンですが、ローマから帰国の途中強盗の凶刃に倒れ、50歳でその生涯を閉じます。彼が不慮の死をとげなければ、美術史の歴史はどうなっていたのか想像せずにはいられません。

(ドイツ語のuウムラウトはueと表記しました)

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第9回 「水上都市ヴェネツィアと芸術のかかわり」 2016/9/13

 六本木の国立新美術館でヴェネツィア派の展覧会が開催されおり、10月から1月にかけては大阪に巡回予定です。

「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展

ちなみに新美術館では、8月までルノワール展も同時開催されており、観客の大半がそちらに流れてしまっていたそうです。残念ながら、ミケランジェロやダ・ヴィンチといった巨匠を除いて、日本人のイタリア美術への関心はまだまだ薄いようです。このメルマガを購読されている皆様は、ぜひ機会に展覧会へ足を運び、ヴェネツィア派にも興味を持っていただければ幸いです。

9世紀初頭、アドリア海の干拓地帯(ラグーナ)に人々が移り住みます。最初は小さな島を保有するだけでしたが、次第に島と島をつなぐ橋を設けたり、干拓事業によって独特の都市構造を作り上げます。13世紀になると、東地中海とビザンティン世界との交流・貿易を通じて一大海上帝国へと成長を遂げます。15世紀にはイタリア内陸部に進出し、西はペルガモを包含するポー川流域地帯を併合するに至ります。こうした領土拡張政策を展開する一方で、国内行政は一部の都市貴族が権力を独占する共和政を確立します。これが14~16世紀にかけての文化的繁栄を実現する原動力となったのです。

ナポリ、ウルビーノ、マントヴァなどにはパトロンである君主の宮廷があり、そこを舞台として芸術が展開しましたが、ヴェネツィアは状況が異なりました。共和政の中の支配階級に位置する裕福な都市貴族、さらに支配階級ではなかったものの、市民生活で重要な役割を担った上流市民層(チッタデイーニ)、そして同信会(スクオーラ)などが芸術のパトロンとなったのです。

例えば、パラッツォ・ドゥカーレは共和国政治の拠点であり、14世紀の大評議会広間の絵画装飾事業には、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano, 1370頃~1427)やピサネッロ(Pisanello, 1395頃~1455)が参加しました。16世紀後半にはジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430頃~1516)、ヴィットーレ・カルパッチョ(Vittore Carpaccio, 1460/65頃~1525/26)、ティツィアーノ(Tiziano Vecellio, 1488/90頃~1576)、ティントレット(Jacopo Tintoretto, 1519~1594)らがヴェネツィア共和国の公的歴史画制作に従事しました。

共和国政府と並ぶ重要な芸術保護活動を展開したのが同信会です。同信会とは、13世紀以降イタリア各地で創設された慈善事業や貧民救済を目的とする組織の一種で、ヴェネツィアには6つの大同信会、120近い小同信会が存在し、多様な活動を展開していました。しかし、こうした団体の権力を握ったのが新興の上流市民層であったため、共和制の権力を握る支配階級に対抗心を抱きます。その結果、慈善事業を目的とした団体であったにもかかわらず、豪華な建築物の建設や装飾事業、祝祭行事への参加などで多額の出費をして、当時の一般市民からも批判されたといわれています。聖なる図像が権力争いの道具として利用されるとはなんとも皮肉なことですが、美術にはこうした政治的思惑が付いてまわることも多々あり、それが美術史の面白さでもあるのです。美術具体的な例として、スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(聖ロクス同信会)の会館では、1564年から87年にかけて、ティントレットによる40点以上の作品が展示されました。

教会や修道院もパトロンとして活動を行いますが、教会組織が世俗権力の下に置かれたため、実質的にはその組織とかかわりのある貴族や富裕市民の援助による場合が多かったようです。ただし、主祭壇画、身廊部や食堂の装飾などでは画家の選定に教会が影響力を行使していました。パッラーディオ(Andrea Palladio, 1508~1580)が設計したサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院では、パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese, 1528~1588)が《カナの婚宴》を描きました。

今回はヴェネツィアの文化事業が栄えた背景についてお話ししました。次回はヴェネツィア派の絵画の特徴をご紹介したいと思います。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第10回 「ヴェネツィア絵画の流れ(1)」 2016/9/26

東京都写真美術館で「杉本博司 ロスト・ヒューマン」、国立新美術館では「ダリ展」が開催中です。特に、杉本博司は2012年に原美術館で開催された「杉本博司 ハダカから被服へ」という展覧会が印象に残っており、今回は初公開となる作品が数多くあるので、非常に楽しみにしています。現代美術や抽象はよくわからないし難しい、という声をよく耳にするのですが、日本・西洋問わずまた古典・現代美術にしてもまずは頭を空っぽにして作品と向き合ってみてください。この時点で専門知識が無くても結構です。見ていて面白い、興味を惹かれる、もっと知りたい、という作家や作品が出てきたら、その後で図書館に行くなり、書物を購入するなりして調べれば良いのです。知識は後回しで結構ですので、ジャンルを問わず色々な展覧会に足を運んでください。きっと新たな世界が開けてくるはずです。前置きが長くなりましたが、今回はヴェネツィア派の特徴を概観しましょう。

15世紀初頭フィレンツェでは芸術革新の波が押し寄せていましたが、ヴェネツィアではやや遅れて15世紀後半、ある画家の登場によってヴェネツィア・ルネサンスの礎が築かれることになります。その名はジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430頃~1516)。初期はビザンティン・イコンの伝統に乗っ取った作品を手掛けますが、義兄弟であるアンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431~1506)との交流を通じて写実的描写や広大な空間表現に興味を抱きます。しかし、その模倣に留まることなく、朱と白による色彩の響きあい、朝焼けによる光の効果など独自の表現を追求します。《オリーブ山での祈り》(1465頃, ナショナル・ギャラリー, ロンドン)はこうした効果が凝縮された一つの到達点といえるでしょう。

ベッリーニに影響を与え、ヴェネツィア派の隆盛にも寄与したもう一人の画家がアントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina, 1430頃~1479)です。彼の生涯は不明な点が多いのですが、シチリア島のメッシーナという町で生まれ、ナポリで修業を積んだと考えられています。15世紀中頃のナポリはフランスのアンジュー家、スペインのアラゴン家という外国人君主によって支配されていました。さらにナポリが南イタリアを代表する海港都市であったため、ヨーロッパ諸国との交流が盛んでした。アンジュー家のアルフォンソ1世は、自国スペインの美術を導入するだけでなく、ヤン・ファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンなどのフランドル絵画も積極的に収集していました。このように国際的な要素が入り混じるナポリで、アントネッロ自身も異国の美術を吸収したと考えられます。彼がヴェネツィア派にもたらした最大の功績は油彩技法の導入なのですが、この技法はフランドル地方発祥のため、上述の環境の中で習得したのではないでしょうか。ちなみに、ヴァザーリはアントネッロがヤン・ファン・エイクに弟子入りして、その技法を学んだと記していますが、これは年代的にも辻褄が会わないため、作り話であると考えられています。

アントネッロは1475年から1年半ほどヴェネツィアに滞在しますが、このわずかな期間に油彩技法やフランドル的な風景画をこの地に定着させます。それまでの絵画はテンペラ技法(顔料と卵黄を混ぜ合わせた絵具で描く技法)が主流でした。テンペラ技法は乾きが早く、乾燥後の強度が優れている反面、描き重ねが難しく、乾燥するまでに素早く描ききらないといけません。このデメリットを補うのが油彩技法で、乾燥後の描き直しやぼかしの効果が可能となり、ヴェネツィア絵画の主要な技法となっていくのです。アントネッロの代表作《書斎の聖ヒエロニムス》(1475年頃, ナショナル・ギャラリー, ロンドン)では、窓の外に見える遠望、静物の精緻な描き方、衣服の角張った表現などにフランドル的な要素が見出せます。

アントネッロとの交流を通じて、ベッリーニの作品にも変化が見られます。《聖フランチェスコ》(1476-78年頃, フリッツ・コレクション, ニューヨーク)では、聖フランチェスコの背後にそびえる岩石の表現、モティーフの細かな表現などは、フランドル絵画にみられる典型的な表現です。ベッリーニはやがて、レアリズムとフランドル風の表現とともに、元来持ち合わせていた色彩感覚と光の使い方を融合させることに成功します。彼が生み出したヴェネツィア絵画は、やがて彼の工房に入門するティツィアーノやティントレットらによって頂点を極めることになります。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第11回 「ヴェネツィア絵画の流れ(2)」 2016/10/12

ジョヴァンニ・ベッリーニが礎を築いたヴェネツィア派の絵画は、どのような展開を辿るのでしょうか。その鍵を握るのがジョルジョーネとティツィアーノです。

ジョルジョーネ(Giorgione, 1476/78頃~1510)の生涯は不明な点が多いのですが、同時代の資料によれば、カテスルフランコ・ヴェネトに生まれ、34歳という若さでこの世を去ったといわれています。画家としては15歳頃にベッリーニの工房に入門、20歳頃にデビューしたと考えられます。25歳頃に制作したと思われる《羊飼いの礼拝》(1505~1510年, ナショナル・ギャラリー, ワシントン)を見てみましょう。ベッリーニと同様、朝焼けの光の効果、精緻に描かれたモティーフ表現などを下敷きにしながらも、師に比べて柔らかい肉付けの人物表現が特徴的です。マリア、ヨセフ、二人の羊飼いは、視線を幼子キリストに向けていますが、物思いに沈んだような表情で、人物同士は我関せずといった様子です。このように同一画面上にいながらもそれぞれが孤独に耽っているような様子を示すのは、ジョルジョーネ独自のものといえるでしょう。このほかにも、有名な《三人の哲学者》(1508~1509頃, ウィーン美術史博物館)や《嵐(ラ・テンペスタ)》(1505~1507年頃, ヴェネツィア・アカデミア美術館)らもこうしたジョルジョーネ的特徴を如実に示す作品です。ちなみに、彼の作品は謎に満ちたものが多く、上記2つもそうした例です。今回は字数の関係で説明を割愛しますが、興味のある方には若桑みどり氏の『絵画を読む~イコノロジー入門~』(日本放送出版協会)が分かりやすい説明でお勧めです。


ジョルジョーネは宗教画だけでなく、肖像画も作成しています。《ラウラ》(ウィーン美術史博物館, 1506年)はヴェネツィアの高級娼婦を寓意的に表わしたものといわれ、片胸がはだけたポーズは娼婦の肖像画の定型です。背後の月桂樹から、ギリシア神話で月桂樹に姿を変えるダフネの姿をした女性ではないかという意見もあるようですが、この辺りの謎に関してもはっきりとした答えは簡単に出せそうにありません。一方、《老女(ラ・ヴェッキア)》(ヴェネツィア・アカデミア美術館, 1508~1510頃)はこれまで見てきた作品とは一線を画する、リアリズム表現が印象的です。しわだらけの皮膚、歯が抜け落ちた半開きの口などを一切理想化せずに描き出しています。右手には”COL TEMPO”(時と共に)という紙片を握り、人生のはかなさを暗示しています。

師から受け継いだヴェネツィア絵画を発展させたジョルジョーネですが、その途上で命を落としてしまいます。ヴェネツィアでは1510年9~10月にペストが流行し、彼もその犠牲者となったのです。しかし、彼の遺志は、工房の後輩であるティツィアーノに引き継がれていくのです。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第12回 「ヴェネツィア絵画の流れ(3)」 2016/10/26

ジョルジョーネによって隆盛に向かうヴェネツィア派絵画ですが、このトリを飾るにふさわしいのはティツィアーノです。ジョルジョーネが30歳代で命を落としてしまったのとは対照的に、彼は80歳代まで長寿を全うしました。作品は公的な祭壇画や私的な肖像画など多岐にわたり、その名はヴェネツィアのみにとどまらず、神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルク家、フランス国王まで知れ渡り、国際的な名声を手にしたのです。

ティツィアーノ・ヴェチェリオ(Tiziano Vecellio, 1488/90頃~1576)は、1488~90年頃、現在のヴェネト州に位置するピエーヴェ・ディ・カドーレという地で生を受けます。当時の記録によれば、9歳のときに伯父がいるヴェネツィアでセバスティアーノ・ツッカートの工房に入門します。セバスティアーノは凡庸なモザイク職人・画家であり、それが理由かは定かではありませんが、その後ジェンティーレ・ベッリーニ、それから弟のジョヴァンニ・ベッリーニの工房へと移ります。これまで述べてきた通り、ジョヴァンニ・ベッリーニの工房には先輩ジョルジョーネもおり、当時最大の勢いを誇っていました。ヴァザーリによれば、18歳頃には師ベッリーニの「生半可でぎこちない様式」を捨て去り、ジョルジョーネの柔らかくて生動感に富む様式に接近したとあります。ジョルジョーネとの関係をどう位置づけるかは難しい問題ですが、師はあくまでベッリーニであり、ジョルジョーネは先輩あるいは助言者であったとみるのが一般的です。20歳頃には公的な壁画制作の依頼を受けるほどの早熟ぶりを発揮し、しかもその壁画がジョルジョーネの壁画よりも評判が高かったため、ジョルジョーネは屈辱のあまり、関係を断ってしまったという逸話も残っています。

しかし、ティツィアーノにとってジョルジョーネが重要な存在であったことには変わりがなく、1510年にジョルジョーネが没すると、未完成で残された《眠れるヴィーナス》(1510~11年頃、国立絵画館、ドレスデン)を仕上げます。また、初期の代表作に《聖愛と俗愛》(1514年頃、ボルゲーゼ美術館、ローマ)があります。様々な作品解釈がありますが、ヴェネツィア貴族で政府高官のニッコロ・アウレリオとラウラ・バガロットの結婚を記念して制作された寓意画であるといわれています。ジョルジョーネに特有の風景表現を踏襲していますが、ジョルジョーネの人物が柔らかくて謎めいた雰囲気を醸し出していたのに対して、ティツィアーノのそれはより明確で存在感を打ち出しているように見えます。

1516年ジョヴァンニ・ベッリーニが死去したため、ティツィアーノは20歳代後半にしてヴェネツィア派のトップに躍り出ます。この頃の傑作に《聖母被昇天》(1516~18年、サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂、ヴェネツィア)が挙げられます。高さ7メートル近い大祭壇画は、聖母を見上げる使徒たちと、父なる神のもとへ上昇していくマリアと彼女を取り巻く天使たちが、実にダイナミックな動きで描かれています。このような動きに富んだ構図は、ベッリーニには見られないものでした。色使いは計算し尽くされ、聖母や使徒の衣の赤、青、緑が画面を調和させています。ヴェネツィア派の最大の特徴である色彩(colore)を実感できる適例といえるでしょう。この作品で名声を不動のものとしたティツィアーノは、その後も積極的に作品制作に励みます。その中には宗教画だけでなく、幅広い人脈を生かした肖像画も数多く含まれています。《カール5世騎馬像》(1548年頃、プラド美術館、マドリード)は神聖ローマ帝国皇帝カール5世を描いたもので、1547年にミュールベルクの戦いでプロテスタント同盟軍を破ったことを記念して制作されました。戦争記念画にもかかわらず、あえて他の兵士や戦闘場面を描かず、甲冑に身を包む皇帝だけを描くことで、静かな威厳をたたえた皇帝の緊張感が伝わってくる傑作です。また、皇帝が右手に持つ長い槍が、鑑賞者の視線を左から右へと動かす役割を果たしている点にも注目です。

冒頭に述べた通り、ティツィアーノは長寿を全うしましたが、決してマンネリに陥ることがなかった点も注目に値します。線描を重視するフィレンツェの画家に比べて、伸びやかなタッチが持ち味でありましたが、晩年になるとそれがさらに顕著になり、明確な形態把握は重要視されず、精神性や落ち着いた色彩が重視されていきます。絶筆となった《ピエタ》(1570~76年、アカデミア美術館、ヴェネツィア)では、個々のモチーフを精緻に描くことよりも、宗教的な世界観を描きだそうとしていることが感じ取れるかと思います。《聖母被昇天》とは対照的な控えめな色彩によって、静謐な空間を表現していますが、聖母マリアの左側で泣き叫ぶマグラダのマリアが、その静けさを打ち破っているかのようです。絵画の解説もしておきましょう。画面左の彫像は十戒を持つモーセ、右は十字架を持ち茨の冠を被るヘレスポントスの巫女で、二人は旧約聖書におけるキリストの受難の預言者です。聖母マリアとキリストの頭上のドームには、雛に自らの血と肉を与えるペリカンが表されており、これはキリストの犠牲を象徴しているのです。

ティツィアーノのよって確固たる地位を築いたヴェネツィア派絵画は、単なる一時代の流行ではなく、その後の近代絵画への橋渡しともなる重要な意義を持っているのです。皆さんもヴェネツィアに赴いた際は、ぜひこれらの作品を鑑賞してみてください。


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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第13回 「ヴェネツィア絵画の流れ(4)」 2016/11/12

前回までヴェネツィア絵画の潮流を形作った画家たちを扱ってきましたが、今回は少し特異な存在であるティントレットという画家を見てみたいと思います。ヤコポ・ティントレット(Jacopo Tintoretto, 1519~1594)は1519年、染物屋の息子として生まれます。ティントレットという名前は、「染物屋」を意味する”tintore”という単語に縮小や新愛の接尾辞ettoが付いたものなので、「染物屋のお子さん」ぐらいの意味でしょうか。10代の頃にティツィアーノの工房へ入門しますが、その腕に嫉妬した師から破門されたという言い伝えがありますが、さすがにこれは後世の作り話のようです。しかし、ティントレットの様式形成を辿ってみると、師とは一線を画したスタイルを求め、ジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano, 1499頃~1546)やフランチェスコ・サルヴィアーティ(Francesco Salviati, 1510~1563)というマニエリスムの画家たちの様式を吸収したようです。但し、ティントレットもマニエリスムの画家だと述べてしまうのは難しい問題ですが、複雑な動きや捻じれを示す人体表現や短縮法に興味を抱いていたのは確かなようで、それを示すデッサンも残っています。

彼の特徴を知るには、実際に作品を鑑賞するのが手っ取り早いでしょう。《プロヴァンスの奴隷を救う聖マルコ》(1547~48年、アカデミア美術館、ヴェネツィア)は初期の代表作で、聖マルコ同信会のために制作されました。同信会の建物の2階に聖マルコ伝連作を描くという契約がなされ、息子ドメニコと共に約40年近くかけて全作品を完成させたという大作です。プロヴァンスの貴族に使える奴隷が、主人の許可なく聖マルコの墓参りをしたために拷問を受けるも、天井から現れた聖人によって救われるという場面です。奴隷の目は今まさにえぐられようとしており、足も斧で切り落とされようというその瞬間、聖人が真上から垂直姿勢で急降下してくるという、劇的かつ緊張感あふれる瞬間を見事に描き出しています。この作品以後、ティントレットは主にヴェネツィアの教会、同信会、パラッツォ・ドゥカーレなどの公共建築物に数多くの大型カンヴァス画を描いていきます。また、他のヴェネツィア派の画家たちと同様に工房を構え、弟子たちとも作業に当たっていました。

最晩年の傑作《最後の晩餐》(1592~94年、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、ヴェネツィア)は、パッラーディオ(Andrea Palladio, 1508~1580)が設計した教会内に現在も飾られています。伝統的な《最後の晩餐》では、キリストと使徒たちが座るテーブルを横一列に並べるのに対して、ティントレットはこれを斜めに配置しています。これによって鑑賞者の視線が対角線上に移動し、画面の奥行きを感じることができるのです。キリストはテーブル中央で使徒の口元に聖餅(キリストの肉として身体に受け入れるパン)を差し出し、使徒たちがその様子に注目しています。聖なる儀式に集中する彼らとは別に、給仕たちは慌ただしそうに食卓の準備を進めています。頭上では無数の天使たちが体を捻じらせながら舞っていますが、彼らが半透明で描かれているのは、人間たちには見えない存在であることを表わそうとしているのでしょう。画面左上のランプとキリストの頭上から発せられる激しい光が、画面奥の闇と対立をなし、画面全体に劇的な印象を与えています画面をじっと見つめていると、今にも人々の会話が聞こえてきそうに感じてしまいます。ティントレットがこれまで見てきた画家たちと一線を画しているのは、こうした明暗の対比、よりダイナミックな動きを多用した表現を見れば一目瞭然かと思います。

ティントレットはアトリエに「ミケランジェロの素描とティツィアーノの色彩」というモットーを掲げていたというエピソードがあります。このことが示すのは、彼の個性が突然変異で生まれたのではなく、ルネサンスを代表する巨匠たちを研究しながら自己の研鑽に励んだ結果であるということです。そして彼の芸術は、同時代のヤコポ・バッサーノ(Jacopo Bassano, 1510~1592)や、エル・グレコ(El Greco, 1541~1614)らの次世代の画家たちに受け継がれていきました。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第14回 ヴァールブルクの知の遺産(1)2016/12/14

まずはこの絵を見てみてください。

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http://www.wga.hu/art/c/cossa/schifano/2april/2april.jpg

嗜好は人それぞれとはいえ、これを見て美しいとか、見ていて心踊らされると感じる人は少ないかもしれません。むしろ、何が描いてあるのかよくわからない作品ぐらいに感じる人がいても不思議ではありません。これは、15世紀イタリアのフェッラーラ派というグループのフランチェスコ・コッサという画家が、スキファノイア宮に描いた月歴図の一部です。1枚目が3月、2枚目が4月の図像です。何の変哲もないようなこの壁画に、古代、中世を経て受け継がれてきた占星術の影響を見出した研究者がいます。その名はアビ・ヴァールブルクで、20世紀初頭の美術史に多大な功績を遺した人物です。本号から数回にわたって、彼の生涯やコッサの月歴図についての解釈をみていきたいと思います。

ヴァールブルクは、1866年裕福なユダヤ人銀行家の長男としてハンブルクで生を受けますが、7歳でチフスを患ったことで就学が遅れてしまいます。これが原因で自身が経営者に向いていないと考えたのでしょうか。13歳の時に弟マックスへ長子相続権を譲り、その代わりに「自分が望む本の代金をマックスが支払う」という契約を結びます。13歳で弟と契約をするというのも想像しにくにことですが、さらにこの契約が後の6万冊といわれる膨大な図書コレクションにつながるとは、当時のマックスには思いもよらなかったことでしょう。1886年、ボン大学へ入学すると、美術史や文化史、神話などを学びます。フィレンツェでの実地演習などを経て、ストラスブール大学へ移籍。1893年には博士論文『サンドロ・ボッティチェッリの《ヴィーナスの誕生》と《春》』を提出します。アビはこの論文で、ボッティチェッリの神話画の典拠を古代および同時代の文学作品の中に求め、なびく髪や翻る衣装といった表現が古代の影響であることを示しました。さらにその前年からはベルリン大学で心理学を学んでおり、彼の関心が美術史の枠を超えていることがよくわかります。実際、彼は自身を「美術史家」だけでなく、「視覚文化の心理学者」とも考えていました。

その後、兵役やフィレンツェでの研究を経て、1895年から96年にかけてアメリカを旅行します(ニューヨーク、ワシントン、ニューメキシコ、サンフランシスコ、スタンフォード、アリゾナなど)。当初の目的は弟パウルの結婚式の参列するためでしたが、この機会にスミソニアン博物館や現地の図書館に通い、さらには先住民たちの生活様式を観察しています。原住民の仮面を被ったり、彼らと触れ合うヴァールブルクの写真も残されています。この時の経験が後述する精神病院での講演につながるのです。

アメリカから帰国すると、1897年に結婚、翌年フレンツェに新居を構えます。ハンブルク美術館やキール大学への就職の斡旋がありましたが、その申し出を断り、自身の研究に専念します。1900年から1907年にかけて発表した論文をいくつか挙げてみると、「肖像芸術とフィレンツェの市民階級」、「フランドル美術とフィレンツェの初期ルネサンス」、「フランチェスコ・サセィッティの終意処分」などがあり、ありな書房から翻訳書が出版されています(後述する「蛇儀礼」と「スキファノイア宮の占星術」も邦語版があります)。

研究の傍ら、資料収集にも余念がなく、1909年に蔵書スペース確保のためにハンブルクへ戻り、新居と隣接地を購入します。これが後の「ヴァールブルク文化科学文庫」と名づけられる図書館の始まりで、現在はハンブルク大学美術史政治図像学講座「ヴァールブルク・ハウス」となっています。

ここまで駆け足ながらヴァールブルクの前半生について述べてきました。次回は、スキファノイア宮での研究に至る経緯を確認してみたいと思います。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第15回 ヴァールブルクの知の遺産(2)2016/12/28

ヴァールブルグは生涯在野の研究者として活動しますが、学会には常に出席して積極的に発言をしていました。1911年にはローマを訪れ、翌年に開催される国際美術史学会に関する打ち合わせを行っています。この国際学会で彼が講演の対象に選んだのが、前回お見せしたフランチェスコ・コッサの壁画でした。

彼がいつから占星術に興味を抱き始めたのかは定かではありませんが、1908年には「占星術に熱心に取り組んでいる」と記録されています。1890年代からドイツを中心として占星術に関する書物が刊行され始めていたため、美術史以外の分野にも関心を抱いていたヴァールブルクのことですから、この潮流にも興味を惹かれたのだと思われます。彼の占星術に関する知識は一目置かれ、フリッツ・ザクセルという美術史家はヴァールブルクを訪ねてきた研究者に「ハンブルクには、占星術についてならばなんでも知っている者がいる」と述べたそうです。準備段階としていくつかの論考を発表した後、ヴァールブルクは1910年にフェッラーラへ調査に赴きます。その時の様子を弟子が回想録で言及していますので、その一節を引用します。

準備は完了した。スキファノイア宮にかなり長い間いられる特別許可、梯子、ランプ、物差しなど、すべてそろった。ヴァールブルクはベルゼルカー(北欧神話に出てくる熊野皮を着た狂暴な戦士)のごとく仕事に突入した。いまやオリジナル作品を前にして何を調査すべきかということについて彼はきわめて正確に知っていたので、種々の観察とその覚書が次々とくりだされたが、ごく稀にそれは驚きの声で中断された。彼を観察している者がいたなら、その人には彼は美術愛好家というより探偵のように思えたことであろう。
[『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』(ありな書房)より引用]


様々な文献を駆使して難解な思考を繰り広げるヴァールブルクではありますが、最終的には作品と向き合い、丹念に観察しているのです。同じ美術史を学ぶ者としてこの一節を読むと、作品に関する様々な知識を得るだけでなく、「見る」という行為がどれだけ大切であるのか実感させられるのです。1912年10月、ローマで第10回国際美術史学会が開催され、ヴァールブルクは「フェッラーラのスキファノイア宮におけるイタリア美術と国際的占星術」という講演を行い、大きな注目を集めることになり、その後も占星術は彼にとって大きな関心の対象となったのです。

次回はスキファノイア宮の壁画を実際に見ていきましょう。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第16回 ヴァールブルクの知の遺産(3)2017/6/20

まずはこちらの画像をご覧ください。

これはエミリア・ロマーニャ州フェッラーラにあるスキファノイア宮殿の「月暦の間」に描かれた、フランチェスコ・デル・コッサ作《3月》の壁面です。宮殿はこの地方の貴族エステ家のアルベルト5世によって1385年に建立され、ボルソ・デステの治世下である1450-71年に大幅に改築されました。そして、1469-70年には、フランチェスコ・デル・コッサやエルコレ・デ・ロベルティなどの画家たちによって「月暦の間」の壁画が制作されました。

画面は三層に区切られており、上層部には一角獣が引く凱旋車に乗る古代の女神ミネルウァの姿が見えます。なぜミネルウァとわかるかというと、戦争と学問の女神である彼女のアトリビュートが散りばめられているからです。戦争の女神としては、左手の槍、メデゥーサの頭部が付いた鎧が挙げられ、学問の女神としては、右手の書物、頭上のフクロウが挙げられます。その右側には糸を紡ぐ女性たち、左側には書物に目をやる学者たちがいます。彼らは、当時フェッラーラで活発だった絹織物産業、またフェッラーラ大学で発達した学問を暗示しているといわれています。

中層部をいったん飛ばして最下部に目をやると、右側奥の扉上部にラテン語で「正義」という文字があります。その下ではエステ家当主のボルソ公が家来たちに囲まれています。つまり、この銘文から彼を称揚する意図があったと推測されます。そして左側には家来たちと狩猟に出かけるボルソ公が描かれ、当時の宮廷生活の様子が想起されます。

さて、最後に中層部を見てみましょう。ここには、赤い服を着た女性がおり、牡羊の上で飛び跳ねているようにも見えます。右側には矢と丸い輪を手にする若者がいます。彼の両手首からは細長い紐が垂れ下がっています。一番左側には色黒の真っ赤な目をした男性がおり、まるで怒りに満ちたような表情をしています。この中層部の図像が今回の肝となる部分なのですが、実は彼らは、占星術における黄道十二宮の牡羊座における3つのデカンを表わしているのです。デカンとは、獣帯(黄道を中心として惑星が運行する帯状の360度の領域)を牡羊座などの12のサインで30度に分割してから、それをさらに3つのサインで10度に分割したものです。

牡羊座は黄道十二宮の3月に該当するので、中央の牡羊はまさにそれを表わしています。その上の女性は、牡羊座に伴って表現されることが多い、古代の花の女神フローラと解釈されます(カシオペア座とする説もあり)。そして左側の男性は、なんと古代ギリシアのペルセウスなのです。ペルセウスは古代ギリシア神話の英雄で、翼のついたサンダル、刀や鎌、盾といった彼のアトリビュートですが、この男性像にはそれが一切ありません。この謎を解き明かしたのが、ここ数回の副題にもある美術史家ヴァールブルクです。彼は1912年に国際美術史学会で行った「フェッラーラのスキファノイア宮におけるイタリア美術と国際的占星術」という講演において、古代エジプト起源の天文学が古代ギリシアの天文学に組み込まれ、やがては小アジアやインドを経由し、フェッラーラへと至る壮大な過程を明らかにしました。ヴァールブルクによると、占星術の書物にペルセウスはしばしば登場し、当初アトリビュートである刀や鎌を保持しており、インド人ヴァールハミヒラの著書でも両刃の斧を持った男性として記述されていました。しかし、ペルシア人の天文学者アブー・マーシャルの文献においてそれが無くなりスキファノイア宮殿の男性像にほぼ近い像となります。その最終的な図像が、色黒の赤い目をした男性像というわけなのです。

最後に右側の若者にも触れておきましょう。ヴァールブルグは彼について言及していませんが、その後の研究で彼もアブー・マーシャルの著作の中に登場することが指摘されており、さらに矢、輪、紐は古代ローマの占星術師マルクス・マニリウスが言及している馭者座と対応するといわれています。  

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第17回 ヴァールブルクの知の遺産(4)2017/7/8

さて、美術史家ヴァールブルクについてのお話しは今回で最後となります。前回は彼は1912年の国際美術史学会でスキファノイア宮殿の壁画と占星術との関連を論じたことをお話ししました。順調な研究生活を送っていたかに見えた彼を苦境が襲います。彼は幼少期から不安感や強迫観念に襲われることが度々あったようですが、第一次大戦の影響からか1918年には精神が完全に崩壊してしまいます。これは現代医療でいう統合失調症と見られ、この頃から病気の研究が進み始めていました。転院を繰り返すも症状に改善は見られず、1921年にクロイツリンゲンにある診療所に入所します。ここは舞踏家ニジンスキー、画家キルヒナーなども治療を受けるほど、ヨーロッパでは名の通った診療所でした。しかし、ここでの治療をもってしても彼の容態は回復の兆しを見せません。そこで彼は研究生活に戻るためのある行動に打って出ます。病院内で講演を行い、その内容によって自らの精神が正常であることを証明しようとしたのです。その題目となったのが、1895年から96年に行ったアメリカ旅行での体験であり、この時に撮影した写真をスライドで映しながら講演を行いました。医師たちは講演内容を評価し、1924年にハンブルクへ戻ります。ちなみに、この講演は『蛇儀礼』というタイトルで日本語でも出版されています。先住民たちの生活様式、蛇という生き物が未開民族の中でどのように受け入れられているのかなど、美術史とは言い難い、むしろ文化人類学と思われる難解な内容ではありますが、美術史の範疇にとどまらない彼の広範な知識を見て取ることができます。なお、ヴァールブルク自身は講演内容を公表禁止にするよう求めていたため、美術史とは一線を画した内容の異質さを気にかけていたのかもしれません。

ハンブルクに戻ると、ハンブルク大学にパノフスキーが着任して、学生の指導に当たっていました。パノフスキーはヴァールブルク学派を代表する美術史家の一人で、のちにイコノロジーという手法を確立したことで知られています。ヴァールブルクは彼を支援しながらハンブルク大学美術史学科の講義を開講します。ここでも入院前と変わらぬ精力的な研究を行い、1926年にはレンブラントとブルクハルトに関する講演を開催します。そして1930年に美学の国際会議をヴァールブルク文庫で開催する計画が持ち上がりますが、その企画の途中に心臓発作でこの世を去ります。

彼が死の直前まで取り組んでいたのが、「ムネモシュネ・アトラス」と呼ばれる白黒写真の図像パネル集の制作です。これは古代の占星術の図像から彼と同時代の報道写真に至るまで、さまざまな図像を黒いパネル上にピンで留め、ヨーロッパにおける古代からのイメージの歴史を考察しようという壮大な試みでしたが、彼が急逝したことで未完のまま終わってしまいます。このような興味深い試みの成果を見ることができないのは残念ではありますが、彼が設立したウォーバーグ研究所は現在もロンドンにあり、彼の意志を引き継ぐ数多くの優秀な研究者たちを輩出しています。

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第18回 アルチンボルドとイタリア美術 2017/7/13

上野の国立西洋美術館で アルチンボルド展 が開催中です。 彼はウィーンとプラハのハプスブルク家の宮廷で活躍しましたが、実はミラノ出身です。そこで今回は、彼がイタリア美術から受けた影響についてお話ししたいと思います。

アルチンボルドといえば、動植物や果物、魚、さらには道具などを組み合わせて作られた肖像画が思い起こされます。今回の展覧会の目玉である『四季』や『四大元素』の連作もその典型と言えるでしょう。これらの肖像画は、彼の空想だけによる産物なのでしょうか。

アルチンボルドは1526年にミラノに生まれ、画家であった父ビアージョから絵の手ほどきを受けます。ミラノはかの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチが1482年から1499年まで滞在していたため、その影響が残っていました。レオナルドから影響を受けた人々をレオナルデスキと言いますが、アルチンボルドの父もこのレオナルデスキと交流がありました。そのため、アルチンボルド自身もレオナルド的な作風を意識しながら成長したと思われます。そして彼が影響を受けたと考えられる作例に、『グロテスクな頭部』と呼ばれる素描群があります。その名の通り、人物をグロテスクな相貌で描いたものですが、特徴はそれだけに留まりません。よく見てみると、人物の外見上の特徴を生々しいまでに写し取った外見、さらには欺瞞や猜疑心といった内面までも描ききっているようにも思えてきます。しかしよく考えてみると、このような相貌の人物は実際にはおらず、誇張して描かれていることもわかります。すなわち、これらの素描は人相学的研究の成果に加えて、風刺画(カリカチュア)的側面も持ち合わせているのです。

アルチンボルドの作品を見てみると、例えば『四季』連作の中の《冬》では、肖像は植物や果物で構成され、その卓越した描写力に目を奪われます。しかしそれだけではなく、極端にデフォルメされた鼻や耳によって醜さすら感じてしまいます。そしてじっくりと眺めていると、モデルの内面がじりじりと伝わってくるような感覚に襲われます。これらの特徴は、レオナルドの素描とも共通する部分があると言えます。

今回の展覧会ではアルチンボルドの作品だけではなく、レオナルド派、さらにはレオナルド自身の素描も展示されています。ぜひご自身の目で両者の関係を見比べてみてください。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第19回 アルテ・ポーヴェラ(1) 2017/7/26

2011年にローマ、ミラノ、ナポリなど8都市で、イタリア統一150周年を記念する展覧会が開催されました。会場に展示されたのはルネサンスやバロックの作品ではなく、アルテ・ポーヴェラという現代美術の作家たちによる作品でした。今回はイタリアの戦後美術を語る上で重要でありながら、日本ではややなじみの薄いアルテ・ポーヴェラについてお話ししたいと思います。

イタリア語で「貧しい芸術」を意味するアルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)の起源は、1967年に遡ります。ジェノヴァのラ・ベルテスカ画廊で、批評家ジェルマーノ・チェラント(Germano Celant)の企画による「アルテ・ポーヴェラ、イメージ-空間(Arte Povera – Im-Spazio)」展が開催されます。同展のカタログで「貧しい芸術」は、「純粋な現前」や「一義性」という言葉を用いて定義されています。これだけ読むと、何か小難しいような気がしてしまいます。作品の詳細については、改めてご説明しますが、アルテ・ポーヴェラの特徴は、木材、石、ぼろきれ、鉄など未加工のモノを用いて作品制作を行う点にあります。これらの素材に何らかの象徴的な意味が与えられるわけではなく、あくまでもその素材でしかないということを主張するために上記の言葉を使ったようです。当初の「貧しい」という意味はこのようなものでした。

1967年から1971年にかけて、チェラントは複数の批評を執筆してアルテ・ポーヴェラの方向性を固めていきます。『フラッシュ・アート』という雑誌に掲載された批評では、自らの運動をゲリラ戦と見なす急進的な態度で、当時主流となっていたポップ・アートやオプティカル・アートを「豊かな芸術」と見なして糾弾しています。彼の論説には曖昧なところもあるため解釈が難しい面もありますが、チェラントが対抗意識を持った豊かな芸術は大量消費社会を象徴する芸術と捉えるのが一般的な見方です。前述のぼろきれのように、あえて貧しい素材を用いた芸術を称賛することで、高度に成長していく現代社会全体に抵抗を示そうとしたのではないでしょうか。

ただし、アルテ・ポーヴェラは特定のイズムから成り立っているわけではなく、作家たちのゆるやかな結びつきによって成立していたため、各アーティストがアルテ・ポーヴェラ的な特徴を持っているとは必ずしも言い難い部分があります。そのため、彼らをアルテ・ポーヴェラという枠組みの中で語ろうとすると若干の矛盾も生じてしまいます。例えば、鏡のように磨き上げられた金属板に人物を描いた《ミラー絵画》シリーズで知られるミケランジェロ・ピストレット(Michelangelo Pistoletto)は、当初アルテ・リッカに属していると見なされていましたが、後にアルテ・ポーヴェラ側に組み込まれることになります。こうした定義の曖昧さが、彼らを語る際の難しさといえるでしょう。

理論的な話はこの辺りまでにして、次回は代表的な作家たちの作品を概観したいと思います。ちなみにアルテ・ポーヴェラの作品は、イタリアの主要な現代美術館であれば収蔵されていますので、これからイタリアに旅行される方はぜひご覧になってみてください。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第20回 アルテ・ポーヴェラ(2) 2017/8/22

今回はアルテ・ポーヴェラの代表的な作家たちをご紹介していきたいと思います。

ジョヴァンニ・アンセルモ(Giovanni Anselmo, 1934 - )
彼の作品は、有限と無限、小宇宙と大宇宙、自然の法則と力(重力、張力、磁気など)を問い詰めようとするのが特徴です。そして野菜、水、鉄、花崗岩、鉄、プラスチックなどを組み合わせて、これらの力を示そうとします。この試みの背景には、彼が1965年にシチリアのストロムボリ火山を歩いている時、宇宙的エネルギーの連続体の中で、自身がちっぽけな存在であるという感覚に突然襲われた経験があります。

1968年に発表された《ねじれ》(Torsione)では、コンクリートブロックの上に堅くねじられた革が置かれ、革は木の棒で固定されています。この作品ではエネルギーを閉じ込めるという行為を示してるのです。もう一つ有名な作品を挙げるとすれば、1967年の《無題》(Senza titolo)、別名《食べる彫刻》(La scultura che mangia)です。垂直に立った大きな花崗岩の側面にレタスを配置して、もう一つの小さな岩でそのレタスをはさみ、銅線できつく巻きつけた作品です。レタスが乾燥すれば、銅線が緩んで小さな岩は地面に落下してしまいます。ゆえにこの彫刻は絶えず新しいレタスに「養われている」のです。そしてこの彫刻では、張力と重力の存在も示されているといえるでしょう。

ピエロ・ジラルディ(Piero Gilardi, 1942 - )
彼は前回述べたジェルマーノ・チェラント企画の展覧会には出品しませんでしたが、その後アルテ・ポーヴェラと密接なかかわりを持つようになりました。さらに彼は、1967年から68年にかけて『フラッシュ・アート』誌上で批評を掲載するなど理論家としての一面も持ち合わせています。

1965年の《自然のカーペット》(Tappeti natura)は、川底、葉、果物などを模したポリウレタン製のカーペットです。一見すると本物に見えるこの作品は、近くで見たり実際に触ってみると、自然物ではなく人工物であることがわかります。都会と自然との接触を取り戻そうとする意図が込められているのです。さらに言えば、過去と現在のあり方を問い直そうとする姿勢も見えてきます。

マリオ・メルツ(Mario Merz, 1925 - 2003)
フィボナッチ数列(1, 1, 2, 3, 5, 8... と無限に続いていく数列)をネオン管で点灯させ、創造と成長という宇宙の原則を示す作品や、イグルー(イヌイットの半円球の住居)を取り入れた作品で知られます。

1968年からはイグルーを使った作品を発表し始め、代表作《ザップのイグルー》(l'Igloo di Giap)では、粘土が入ったビニール袋で金属製のイグルーを覆い、その上にベトナム民主共和国のヴォーグエン・ザップ将軍による「集中する敵は領土を失い、散開する敵は力を失う」という言葉がネオンで配されています。ここから当時のベトナム戦争を扱ったかなり政治色の強い作品であり、イグルーは内側にいる者を外部の脅威から保護してくれるシェルターの役割を果たしていると解釈できます。しかし、メルツにとってイグルーが政治的メッセージの発信道具であったと考えるのは短絡的で、彼にとってイグルーとは、人間の存在の根源である住居、食事、自然とのかかわりといったものを追求するための道具であったことも付け加えておきたいと思います。

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第21回 アルテ・ポーヴェラ(3) 2017/9/25

■ ルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro, 1936 - 2007)
彼は「トートロジー(同語反復)」という手法を用いて、そこにあるものを再認識させることを試みました。1963年から65年にかけて《透明な》(Tranparente)というシリーズを制作し、展示会場にガラスや鏡を未加工に近い形で展示します。これは素材の反射や透視性という性質が、空間で相互に影響し合うことを目指したものです。

1967年にアルテ・ポーヴェラの運動に参加して彼の探求心はさらに深まり、翌年から《足》(Piedi)のシリーズを制作し始めます。ブロンズ、大理石、アルミニウムなどを使った三脚形の土台にスチールを垂直に立て、それをシルクなどの素材で覆ったものです。土台は鳥の足のようにも見え、スチールを覆うシルクは靴下やズボンのようです。しかし、土台は彫刻でありながらも、素材そのものでもあるのです。ファブロは、彫刻と素材という不確かな関係を想起させる、二重の存在性というものを探求しているのです。

やはり68年から発表し始めた《イタリア》(Italia)というシリーズでは、ブロンズ、ガラス、毛皮、皮革、金などでイタリア半島を模して、それをさかさまに吊るしたり、様々な角度にして展示します。ブーツのような形で有名なイタリア半島をこのように提示することで、そこにあるのはイタリアか、それとも素材自体なのかと私たちの認識を刺激します。

1976年から制作を開始した《衣服かけ》(Attaccapanni)は、銅製のフレームを壁に掛け、そこからスプレーで彩色したリネン素材を吊るしてあります。一見すると何の変哲もないカーテンのようです。ファブロ自身は、これを「オブジェクト」「環境」「風景」などの言葉で表現するのは間違いで、作品を深く観察し、さらなる疑問を投げかけることを拒んでしまうという発言をしています。ファブロの言葉の裏には、作品自体とそれが表現したもの(カーテン)の二重の意味を問いかける意図があるように思えます。さらには、古代ギリシアのゼクシウスとパラシオスの絵画コンテスト(ゼクシウスが葡萄を描き、小鳥がそれをついばもうとした。一方、パラシオスはカーテンを描き、ゼクシウスはそれを本物を思い込んでカーテンを開けるよう命じた)を想起させます。

■ ヤニス・クネリス(Jannis Kounellis, 1936 - 2007)
彼はアートと生活、自然と文化の間にある空間に関心を持ちながら、素材がもつエネルギーをいかに引き出すかを模索しながら制作を行いました。初期の作品では、数字、矢印、道路標識や看板からとった記号をキャンバスに描いています。都市生活で目にする記号を絵画の領域にも持ち込もうとしたこれらの作品では、記号は本来の意味を失い、キャンバスの上であらたな絵画を構成する新たな記号として存在します。

しかし、彼の作品で最も有名なのはアルテ・ポーヴェラに参加してからのものではないでしょうか。1967年に生きたオウムを灰色の背景の前に美術作品として展示し、さらに69年には、生きた馬12頭をギャラリー内に陳列するというショッキングな展示をやってのけます。おそらくクネリスは、美術作品が何らかの物体からできていなければならないという因習を打ち壊しながら、美術作品を見るときと同じような観点で生きた動物や自然をみるべきだ、ということを鑑賞者にほのめかしたのだと思われます。さらに鑑賞者は、展示空間でエネルギーの源となる動物がいる光景の一部となるのです。

その他にも《無題》と称したインスタレーションを数多く行い、木製の柱にボロボロになったウールを掛けた作品、麻袋にコーヒー豆、ヒヨコ豆、レンズ豆などを入れた作品などがあります。原初的な素材や日常生活で用いられるものをそのコンテクストから切り離し、ギャラリーという芸術空間に持ち込むことで、美術と日常の境界線を打ち壊そうとしたのです。

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第22回 アルテ・ポーヴェラ(4) 2017/10/10

■ ミケランジェロ・ピストレット(Michelangelo Pistoletto, 1993-)
鏡面化したステンレス鋼板に、等身大の人物写真を貼った《ミラー絵画》シリーズで知られます。1950年代の終わり頃から、単調な背景の上に輪郭を縁取った人物像を描きだします。60年代になると、背景は鏡面化したステンレスなどの反射材へと変わり、前述の人物写真が貼られます。人物は生きているかのようで、展示空間に向かって来るように見えます。ピストレットは、鑑賞者、鏡像、そして描かれた人物との間に生み出される瞬間性というものを表現しようとしたのです。

1967年からはアルテ・ポーヴェラの運動に参加し、中心人物として活躍します。同年に制作された《ぼろきれのヴィーナス》(Venere degli stracci)は、様々な色のぼろきれを山のように積み上げ、その前に大理石のヴィーナス像を後ろ向きに置いた作品です。西洋美術における美の規範ともいえるヴィーナス像と、使い古されたぼろきれを組み合わせることで、過去/現代、貴重なもの/日常的なもの、唯一性/大量性といった対立概念が示唆されています。ぼろきれのような日常の貧しい素材を利用したこの作品は、アルテ・ポーヴェラの活動を端的に示すものと言ってよいでしょう。

現在も精力的に活動を続けており、ピストレット自らがガラスをたたき割り、それを巻き戻す映像など、空間のみならず時間にも意識を向けた作品を制作しています。

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コラム「イタリア美術史」早川伊太郎
第23回 おすすめの美術書(初級編) 2017/10/24

「美術を勉強するのに、どんな本を読めばいいですか?」という質問を受けることがよくあります。そこで今回は、美術作品の見方の基本を身につけるのにお勧めの本をご紹介します。大抵の公立図書館なら所蔵しているはずです。なお、筆者の専門の関係でイタリア、特にルネサンス寄りの本が多くなってしまう点はご了承ください。

(1) ①作品の見方や概要を知る

■ 若桑みどり『絵画を読む:イコノロジー入門』ちくま学芸文庫、1993年
美術史上の名品を扱って、作品にどのような意味や思想があるのかを解説した本。いわゆるイコノグラフィー(図像学)やイコノロジー(図像解釈学)という手法を使いながらも、平易な文体でわかりやすく書かれています。


■ 越宏一『ヨーロッパ中世美術講義』岩波書店、2001年
若桑氏の本が「何が描かれているのか?」に焦点を当てているとしたら、こちらは「どのようにして描かれているのか?」という、いわゆる様式論に基づいた考察を行っています。それまでの漠然とした「見る」という行為が、「観察する」に変わるにはどこに目を付けるのかがわかると思います。同氏の『中世彫刻の世界』(岩波書店、2009年)もおすすめです。


■ 三浦篤『まなざしのレッスン:西洋伝統絵画』東京大学出版会、2001年
■ 三浦篤『まなざしのレッスン:西洋近現代絵画』東京大学出版会、2015年
フランス近代絵画を専門とする著者が、東大の1年生向けの授業を基に書き下ろした本です。美術を学び始めた学生が対象ですので、非常に読みやすい調子で書かれています。


■ 『世界美術大全集:西洋編』全28巻、小学館、1992~1997年
古代ギリシアから戦後の抽象美術まで及ぶ豊富な情報量と図版を誇り、おそらく後にも先にもこれほどのものは出版されることはないのはないか。各分野の専門家による解説も秀逸。気になる時代を選んで読んでみてください。


■ 『西洋美術史ハンドブック』高階秀爾・三浦篤編、新書館、1997年
古代から現代までの通史、および主要作家の略歴をまとめた一冊。図版が乏しい印象は否めませんが、ここに書かれている内容を抑えておけば、海外の美術館などを訪れた際に最低限の知識を持って作品と接することができるでしょう。なお、この本の(個人的な)一番の見所は、巻末の「西洋美術史学方法と歴史」です。美術史という学問がどのような変遷を辿って来たのかがコンパクトにまとめられていて興味をそそられます。


(2) ②用語や意味を調べる

■ ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典:絵画・彫刻における主題と象徴』河出書房新社、1988年
古代の神話やキリスト教の主題を扱った美術を見ている時に、聖人やアトリビュート(関連する持ち物)を調べる時に重宝します。例えば、「受胎告知」の場面で大天使ガブリエルはユリを手にしていますが、この事典で「ユリ」を引いてみると、純潔の象徴で聖母マリアと関係するものだということがわかります。パラパラと眺めても楽しめます。他にも以下のようなものがあります。


■ 『新潮世界美術辞典』新潮社、1985年


■ 『オックスフォード西洋美術事典』佐々木英也監修、講談社、1989年


(3) ③歴史関係

■ 若桑みどり『フィレンツェ』講談社、2012年


■ ジーン・A.ブラッカー『ルネサンス都市フィレンツェ』森田義之・松本典昭訳、岩波書店、2011年


イタリア・ルネサンスの歴史を知りたい人向け。美術史と並行して学びたい人は若桑氏の著作が無難でしょうか。ブラッカーの著作は、政治、経済、社会、宗教など多様な側面に焦点を当てています。

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